ご主人様のすすめで、日記をつけてみることにしました。私の記憶が戻る手がかりになるかもしれないから、ということです。
今朝、私が砂浜で倒れていたところを、今日子(きょうこ)さんに助けていただきました。
私は、自分がどうしてそんなところに倒れていたのか分からなくて、戸惑ってしまいました。今日子さんに名前を聞かれて、それでようやく、自分が記憶喪失になっているって、気づきました。
たぶん、前の日の嵐で船が沈んで、それでこの砂浜に打ち上げられて、助かったんだと思います。後で見たニュースでも、客船が沈没、行方不明者多数って、言ってました。
自分の名前も住所も分からず、行くあてのない私を、今日子さんが、この海風館に連れてきてくださいました。海の見える、素敵なお屋敷です。
この館のご主人様に、今日子さんがお願いしてくださって、記憶が戻るまでの間、私はここで過ごせることになりました。
海鳴館には、ご主人様と、メイドの今日子さん、それから秘書の明日歌(あすか)さんの三人で住んでいらっしゃるそうです。大きなお屋敷なので、部屋がたくさんあって、私にあてがわれた部屋も、けっこう広い部屋でした。
おいしいお食事も食べさせてもらって、なんだか申しわけないと思ったので、今日子さんにお願いして、家事を手伝わせてもらうことにしました。だから私は今日から、メイド見習い、です。
あ、それから、名前をつけていただきました。未来(みらい)、という名前です。名前がわからないと呼ぶときに困る、というので、ご主人様が考えてくださいました。
記憶喪失で、過去をなくしてしまったけれど、未来に向かって生きていくように、って。
いただいた素敵な名前に負けないように、これから、頑張っていきたいと思います。
ニュースで、死者行方不明者、とか言われている中に、自分も含まれているのかと思うと、なんだか変な気分です。
明日歌さんは、ニュースを録画したテープを再生して、被害者(被災者?)の名前を書き写していました。私の身元を調べるための手がかりにするそうです。
秘書をやっているくらいだから、明日歌さんはきっと頭がいいのだと思います。私が自分で身元を調べるよりも、ずっとずっと頼りになりそうなので、ご厚意に甘えて、お任せしちゃってます。
さて、家事のお手伝いをするということで、私は今日子さんからユニフォームをもらいました。なんと、今日子さんとおそろいの、メイド用のエプロンドレスを、私のサイズにわざわざ合わせて作ってくれたそうです。
「裁縫が趣味なもんだから、つい作っちゃってさー」
って言ってましたけど、私のために作ってくれたと思うと、嬉しかったです。
ひらひらしていて可愛くて、なんだか家事で汚れちゃうのがもったいないです。
ちなみに、明日歌さんのユニフォームは、私や今日子さんのとはちょっとだけ違って、ひらひらが少なめで、体にフィットしたようなデザイン。
明日歌さんの話によると、元々はユニフォームなんてなかったけれど、今日子さんが勝手に作っちゃったみたいです。いきなりひらひらの服を渡された明日歌さんは、すぐにつき返して、秘書にふさわしいくらいに控えめなデザインに直させた、って。
個人的には、明日歌さんのひらひら姿、見てみたいなぁ、なんて。美人の明日歌さんには、こういう可愛い服、きっと似合うと思うから。
そのかわり、きっと秘書に見えなくなっちゃいますけど、ね。
昨日の夜、不思議な夢を見ました。
気がついたら、私は海の中にいました。ゆらゆらと波に揺られるのが気持ちよかったです。
そうしたら、遠くのほうから魚が泳いできました。だんだん近づいてきて、その魚が今日子さんの顔をしていることに気がつきました。
今日子さんは人魚の姿をしていました。海の中でも眼鏡をかけたままでした。
私の目の前まで来た今日子さんは、
「さ、行くよ」
と言って、泳いで行ってしまいました。
あわてて追いかけようとして、私は自分にもしっぽ(?)があることに気がつきました。私も、人魚でした。
私は今日子さんに追いつき、二人で並んで泳いで……そこで目が覚めました。
朝食のとき、その夢の話をしたら、今日子さんは、
「未来とあたしが人魚!? そりゃまた変な夢を……そもそもあたし、泳げないよ?」
って、目を丸くしてました。
(眼鏡も目もまん丸で、ちょっと面白かったです)
明日歌さんは、
「実は、未来ちゃんは『王子様に会うために記憶と引き換えに足をもらった人魚』だったりして」
と冗談を言ってきました。
……もしそうだとしたら、私は王子様に会うのに失敗したお間抜け人魚です。
それとも、ご主人様が王子様?
未来が海風館に来てから3日目。
突然「人魚の夢を見た」とか言い出した。
どうやら助けるときに見られてしまったみたい。まずい。
驚いてうろたえちゃったけど、なんとか誤魔化した。
あの時、未来は水中で意識を失ってるように見えたんだけどなぁ。
肝心なことは覚えてないのに、よりによってあたしの人魚姿が記憶に焼き付いてるとは。
とりあえず、あたしが実は人魚だってことは、ばれてはいないみたいで、一安心。
未来は悪い子じゃないみたいだし、正体がばれても大丈夫だとは思うんだけど、助けた時点では良い子だってのは分からなかったわけだし、もしかすると悪い子だった可能性もあったわけで。
とにかく、今後は気をつけよう。
今日は、今日子さんに家事を教えてもらいました。
(といっても、まだ私はほとんど見てるだけです)
海風館はとても広いので、毎日全部を掃除するのではなく、一日に二部屋か三部屋くらいのペースで掃除するとのことです。
普段使っている部屋は週に二回くらい、めったに使わない部屋は月に一回くらいになるように、今日子さんがスケジュールを組んでやっています。
掃除も料理も、今日子さん一人でこなしているなんて、すごいなぁ、と思います。
私は、今日子さんに、どうしてもっと人を雇わないのかを聞いてみました。
「ご主人様の方針でね。必要のない人員は雇わない、っていうのが基本なのよ」
それを聞いて、私は、自分がご主人様にとって邪魔者なんじゃないかって考えて、うつむいてしまいました。
そしたら、今日子さんが言いました。
「それともうひとつ。ご主人様はね、七年前、十五歳のときにご両親を亡くされているの。それで……」
それがきっかけで、私は今日子さんから、ご主人様の過去を聞くことになりました。
体の弱いご主人様は、両親の仕事を継ぐこともできず、親戚の人に厄介者扱いされてしまい、引き取ってくれる人もいませんでした。
遺産は、一生困ることはないくらいにありましたが、仕事のあてがあるわけではないので、今後は減っていくだけです。
高いお金で雇われていた使用人たちは、沈みかかった船から逃げるように、次々と離れていきました。
けれども、使用人の中で、明日歌さんだけは、ご主人様の元に残りました。
ご主人様と明日歌さんは、別荘であったこの海風館に移り住んで、二人で生活をはじめた、というわけです。
「と、そんなこともあったから、お金でつられるような人を雇うのは嫌みたい。雇ってくださーい、って人が来ても、賃金は安いですよー、って追い返しちゃうのよ。で、家事が趣味みたいなあたしは、お金は要らないから家事をやらせてくださーい、って言ったら雇われた、と」
今日子さんは笑いながら言いました。
「あたしが思うに、ご主人様が求めているのは、使用人じゃなくて、心の支えになりうる家族なのよ。優しい長男、しっかり者の長女、能天気な次女。それから」
私を指差して、
「かわいらしい三女。いい家族だと思わない?」
そんなふうに言って、今日子さんは私のことを気遣ってくれました。
いつかは私も、今日子さんや明日歌さんのように、ご主人様の心の支えになれるでしょうか?
また、人魚の夢を見ました。
私が人魚で、海の中をゆったりと泳いでいる夢です。
しばらく泳いでいたら、日が暮れてきました。それで、家に帰ろうと思ったのに、家がどこにあるか分からないんです。
水面の上に出て、まわりを見ても、海のほかには何も見えなくて。
帰れない、どうしよう、と思ったところで、明日歌さんに起こされて、目が覚めました。
(私がなかなか起きてこないので、起こしに来てみたらうなされていた、と言ってました)
記憶を亡くしてしまった不安が、夢に出たのかもしれません。
そんな夢を見たから、今日は「もし私が本当に人魚だったら」ということを考えてました。
足をもらうかわりに、記憶を取られてしまった人魚。
大事な記憶を捨てても人間になりたかったなんて、きっと何か大きな「やるべきこと」があったんじゃないかなぁ、って。
人間の起こした環境問題で海が汚れちゃったから、それを止めに来た、とか。
でも、記憶がなかったら、やるべきことなんて、分からなくなっちゃいますよね。今の私も、そうだけど。
今日子さんにその考えのことを話したら、またびっくりされちゃいました。
そして今日子さんは、私の頭をなでて、言いました。
「やるべきことがなくて困ってるなら、やりたいと思ったこと、何でもやってみたらいいんじゃない?」
そう言われて初めて、私は「やるべきこと」がないことが不安なんだって気づきました。
今日子さんは、すごいです。私の心、全部分かってるみたい。
私は、明日からさっそく、やりたいこと探しを始めようと思います。